2019/12/11
健康な人を病気にしない看護を求めて。農家になると決めた看護師
※畑のそばの、豊かな暮らし発掘メディア「ハタケト」は、2022年9月1日より愛食メディア「aiyueyo」にリニューアルしました。
このマガジンは「畑のそばに生きる様々な人」と「その暮らし」の紹介を通じて、皆さんと一緒に生き方の選択肢を再発掘していくメディアです。
本日お話をお伺いするのは青森県で現在お米の農家になるべく就農準備中の女性、成田祥子さんです。
祥子さんは現在38歳。農家になると決める前の、これまでのキャリアはなんと看護師。
しかも看護師の期間も地方病院→大学病院→ラオスへ青年海外協力隊→訪問看護×鍼灸師修行と、とても面白いキャリアを転々とされています。祥子さんがこのようなキャリアを歩み、そしてその先に農家になると決めた理由とは?祥子さんの話を聞いていると、人間として健康に生きることとは?そんな大きな問いを考えさせられました。
ラオスで知った、人間の命の逞しさ
ハタケト:祥子さん、今日はよろしくお願いします。
祥子さん:はい。よろしくお願いします。私なんかの話でいいのかという気持ちでいっぱいですが…はるばる青森まで会いに来てくれて嬉しいです。
ハタケト:はじめてお会いした時はまだ東京在住でしたね。開催させていただいた講演の最後にお声がけいただいて。そこで祥子さんが看護師でいらっしゃったのに西洋医学のアプローチに疑問をもち、東洋医学に進み、さらに自ら農家になると決断されたと聞いて、その時からずっと興味津々でした。(笑)
ぜひその農家の道に至るまでの経緯を知りたいです。一番最初の転換点というのはどこにあったのでしょうか。
祥子さん:はじめのきっかけは、地域病院の勤務から大学病院に転職したことです。それまでは、「患者さんを生活の場に戻す事」を大切にしてきていたので、「病気を治す」事を優先することに日本の医療とは何なのか?私のやりたかった仕事は何なのか?と疑問をもつようになって。今考えれば大学病院はそういう役割の場所だと理解できるのですが、当時は若かったので。(笑)
それで、仕事の意味が見出せないことが苦しくなり、逃げるように青年海外協力隊に志願し、ラオスに2年間いったんです。
ハタケト:ラオスに!不勉強で恐縮なのですが、ラオスってどんなところなんでしょうか?
祥子さん:ラオスはまさに今発展しつつある、東南アジアの国のひとつです。ただ、医療はまだまだ未発達で。多くの少数民族がいたり、経済・地域格差も大きく、下痢で亡くなってしまう子もいるという現状です。看護の考え方も価値観も異なることがありました。
ハタケト:看護の考え方が違うとは?
祥子さん:日本で看護師が果たす役割は患者さんの「ケア」も含みます。しかしラオスではケアは家族がするもの。看護師は医療行為をする役割が大きかったです。まずそこにビックリして。ただ、最初はそれを「さぼっている」と捉えていたのですが、現地の人々を見ていると、家族がベットの横に調理道具を持ち込み、泊まり込みで寄り添い、献身的なケアをしている。しかもそれを全く苦にしているようじゃないんです。
だんだん「あれ、もしかするとこっちの方が幸せなんじゃないか」と思うようにもなって。日本の医療が苦しくなって逃げるように飛び出したわたしだったので「日本の当たり前が世界の当たり前ではないんだ!」と気づいたのは大きな収穫でした。
ハタケト:その気づきがその後のキャリアチェンジに繋がっていますか。
祥子さん:そうですね。しかもラオスの方がたしかに、少しの知識があれば助かる命もありましたし、医療水準が低く、薬や機器も少ないのですが、命の逞しさに感動させられた事が強く印象に残っているんです。もしかすると、日本では病気になったら、自分の治る力を発揮する前に、すぐに薬を使って治してしまう事で、自分で治す力が弱っているのではないかと思ったんです。
だからもっと人間本来の「強さ」を引き出す形で看護に関われないかと思うようになりました。
その時浮かんだ手段が針灸を学ぶことでした。
地球の大きな仕組みに人間は生かされている
祥子さん:帰国後は、日中は訪問介護をしながら、夜に鍼灸の勉強をするという日々を過ごしました。ただ、鍼灸をはじめてみると、少しショックなこともありました。本来の東洋医学的な鍼灸だと、体はすべて繋がっているという経絡治療の考え方にたちます。手に打った針で首の痛みが治る、という世界なんですね。ただ、どうもわたしがその効果が薄いというか、鈍感で…。
そんな鈍感な自分が嫌で、もっと感覚を研ぎ澄ませたい!という思いで、山伏やアフリカンダンスを習ったりしました。
山伏は暗闇の中で山を下ったりするのですが、その体験を三年間やってみる中で自然の雄大さ、怖さを感じることができました。大きな自然の仕組みがあって、その中で人間は生かされていると感じることができました。
ハタケト:大きな仕組みに生かされている、ですか。
祥子さん:アフリカンダンスも裸足で大地を感じるみたいな要素があるのですが、そこでの気づきも重なって。大きな自然の仕組みに人間は生かされていて、自然界と人間界という別の世界では無く、一つの生態系の要素なんだなという気づきがあり、私の中で「共生」がテーマになっていきました。
3度連続で迎えた、40代の看取り
ハタケト:その「自然の仕組みに生かされている」という気づきが農家になるという選択に繋がったのですか?
祥子さん:もちろんそれもありますが、決め手になった出来事があって。訪問看護をしていると、ご自宅で病気の方を看取るということも多くあるんです。今までは、高齢な方を看取ることが多かったのですが、ある時、40代のがん末期の方をお宅で看取るという体験が、3件続きまして。
若くして亡くなられる方は、高齢の方に比べて基礎体力もあり、最期は「せん妄」といって暴れてしまうことも多いんです。きっと「生きたい」という想いも強いんだろうなと感じていたのですが。そんな方々を看取ったことで、若くして亡くなる無念さを強く感じて「病気になる前になんとかできなかったものか」と深く考えさせられました。その時、看護師は病気になった人は見るけど、健康な人を病気にしないためにはどうしたらいいかをわたし自身が初めて考えたことに衝撃を覚えたんです。もう雷に打たれたような気持ちでした。
ハタケト:看護師さんのお仕事、確かに言われてみればそうですよね。
祥子さん:これは衝撃的だと思って、周りの看護師仲間にこの気持ちを打ち明けたんですけど、みんなの反応はあんまりなくて…。そこにもさらにショックを受けました。この気持ちと、先ほどの「自然の仕組みに生かされている」という気づきが一気に繋がって、「健康な人を病気にしないために、自然な農業を通じて、健康を守る事を伝えたい」という志を描くようになりました。それで、自然栽培でお米を生産する農家になることを決めました。
強い志、その一方でぶつかった就農の壁
ハタケト:それで地元の青森に帰って来られたんですね。
祥子さん:はい。まだ資金力もないので実家に暮らしながらの挑戦です。実はうちはお米農家なんです。しかし、両親は子ども2人に「農業は大変だから継がなくていい」と言っていて、二人ともやりたい事をやれば良いと上京させてくれました。まさか自分が帰ってきて、しかも米農家になるという選択をすることになるとは思いもしませんでした。
ハタケト:ご両親が米農家なのですね!すると、おうちの農業を継ぐ形になるのですか?
祥子さん:いえ、それがうちはずっと慣行栽培(農薬を使う通常の栽培方法)だったのですが、わたしは農薬を使わない、自然栽培でやりたいと思っていたので、親とも話して別の土地で事業継承はせずやることにしました。でもそうなると、後継ではなくなるので、土地を借りることも難しくて…。法律上、農地は農家しか借りられないので、後継するか、どこかの農園で研修を受け、研修生にならないと土地を得る権利を得られないんです。研修先を探すため、役所の担当の方に相談にいったのですが、もう否定されまくりで。(笑)
ハタケト:どういうことですか?
祥子さん:お米をやりたい!と言ったら、「お米は収量あたりの純利益が安い。ハウスを立ててトマト農家になったら純利益は30倍だからその方がいい」と。しかも自然栽培でやりたいなんて言うと、「食べていくのは難しいよ」という言葉ばかりをうけました。心に決めていた自分の思いも一瞬で迷いに変わっていきました。
それでしばらく迷いの中にいたのですが、ある時「奇跡のリンゴ」で有名な木村秋則さんに農法を学びながら仲間と自然栽培を行う「自然栽培女子会」というコミュニティに出会ったんです。そこで久しぶりに「いいじゃん!」って自分のやりたいことを肯定してくれる仲間に出会えて、救われる思いがしました。今は自然栽培女子会に参加しながら、お米と野菜の栽培を実践しながら学んでいます。農地もめぐり合わせだったりするので、焦って探してもしょうがないな、と。だから、まずは訪問看護の仕事も再開しながら、自然栽培女子会でゆっくり時間をかけて農業を学びつつ、場所も探して行ければと思っています。
ハタケト:きっとそれが「看護」をテーマにする祥子さんらしい農業のスタイルを確立することにも繋がりそうですね。これからの祥子さんの進捗が楽しみです!今日は素敵な話本当にありがとうございました。お互いこれからも頑張りましょうね。