2020/09/25
「食と農」の未来のために、同じ志を追う。 それは、最強の夫婦円満法かもしれない。前編【FARM1739 井上敬二朗 真梨子】
※畑のそばの、豊かな暮らし発掘メディア「ハタケト」は、2022年9月1日より愛食メディア「aiyueyo」にリニューアルしました。
本文このマガジンは「畑のそばに生きる様々な人」と「その暮らし」の紹介を通じて、皆さんと一緒に生き方の選択肢を再発掘していくメディアです。
今回はお話をお伺いするのは栃木県那須町で米農家FARM1739(イナサク)とその米菓子の販売法人TINTS Inc.を営む井上敬二朗さん、真梨子さん通称「パフ夫妻」。
パフ夫妻は、産直ECで大人気のお米や自社栽培の米菓子「イナポン」、そして現在はお米の楽しさを広げるためクラウドファンディングに挑戦するなど、次々と革新的な取り組みを行なっています。
大手監査法人から家族で岡山へ移住、ベンチャー勤務からのカフェ経営、そして米農家という異色のキャリアを持つ2人は、これまでも今も、何をするにも夫婦二人三脚で対話・挑戦を繰り返しているのだといいます。
今回のハタケトはその「夫婦の原動力」にみっちり迫っていきたいと思います!
内容が濃すぎて、ハタケト初の前編・後編にてお届けいたします。
哲学トークで意気投合!?2人の出会い
敬二朗さん:僕たちは元々同じ職場で出会いました。僕が2社目で入社した監査法人トーマツという会社です。1社目は証券会社に在籍していたのですが、これがなかなかの激務でして…資本主義の最前線に立ちながらも、毎日数字数字で、一体誰の何に役立っているのだろう?という疑問が湧き、同時にお金持ちのお客様たちが必ずしも幸せなわけではないことを知り、「どうなったら人は幸せになれるんだろう?」という問いをずっと抱えていました。
そんな中、当時、企業の粉飾決算がニュースで取り沙汰されていた時代で、そういう不正を防ぎたいなとう正義感が芽生え、会計監査の世界に興味を持つようになったんです。
真梨子さん:わたしは実家の那須から東京に出てきて、ずっと家という箱から電車という箱に乗り、会社という箱に行くという生活。「このままで自分はいいのだろうか?」と思っていました。システムエンジニアの世界から監査法人に転職し、給与もいいし、福利厚生も充実していて、女性にもやさしくとても素晴らしい職場でした。でも、企業に入ると企業の人間として働き、企業対企業で、話が進みますよね。なんとなく人と人の心が通じ合う感じがしなくてもやもやしていました。
それと、当時、お互いの別の彼氏彼女がいたんですが、結構ひどい目に遭っていたんですよ(笑)。2人とも激ヤセしていて、それで付き合う前、2人で「この哲学書いいよ」とか話をしていました。
敬二朗さん:恋愛に仕事に「お互い、何してるんだろうね…。」とよく話していましたね。それぞれ別々の経験をしてきましたが、20代で自分たちが抱えてきたいろんな心の闇、「生きるとは何か」を共に突き進めていく形になっていたんです。
20代最後の頃ですね。社会に揉まれて、きっと多くの方が悩み始める時期だと思います。
(おすすめの哲学家は小林秀雄さんと池田晶子さんということです!)
移住、そしてカフェ経営へ
ハタケト:深い哲学のレベルで通じ合える関係だったのですね。
そこからおふたりは結婚後、岡山県に移住してカフェを経営されていますね。その経緯を教えてください。
敬二朗さん:僕が30歳のときですね。当時mixiに、岡山で環境ベンチャーをやっている先輩がその活動をがんがん載せていたんです。
「今日は保育園の屋根に太陽光パネルを設置してきました。」とか「子どもたちに環境教育してます」とか。それを「すごいなぁ〜」と思ってみていました。
ちょうど社会起業家(ソーシャルアントレプレナー)が流行っていた時代で、僕もそういう風に地域に良いことをしながら、経済の循環を作っていく人になれたらと憧れていたんです。会計監査の仕事は「僕がいなくても良いのでは?」と思う部分が多々があって。もっと社会に役立っている実感を持ちたかった。そんなとき、「田舎は人材不足、もう東京は誰かに任せといたらええから、こっちへ来い!」と先輩が僕を誘ってくれたんです。
真梨子さん:わたしもその先輩のmixiを見せてもらって、「めっちゃ意味あることしているじゃん!」「わたしは何をやってるんだろう?毎日パソコンの前で座っていていいのかな…。」という気持ちになっていました。その頃、田舎育ちの私は、だんだん東京に疲れてきてしまい、体調を悪くしたこともあり、結婚と同時に、岡山県備前市に移住することを決めました。
ハタケト:それでは、まずベンチャーの会社に入社されたのですね!
敬二朗さん:はい。ただ、そこは2年弱で辞めました。ちょうど太陽光ビジネスが広がり始めた頃でしたが、中に入ると補助金頼みのビジネスだったんです。
地域に意味ある組織体として、地域に喜ばれる存在になった方がいい!と僕らは提言したんですが、社長と方向性が噛み合わず…きっと、よくある話ですよね。
売上や利益も大事ですけど、「ビジョンやミッションを達成するための事業」をしたいと思っていました。仕事の意味を見つけたくて、東京から来たわけですが、それができないなら何のために来たのかわからない。そんな想いでベンチャーを辞め、そこから地域に愛されるお店(カフェ)を開業したいと決意したんです。
真梨子さん:ちょうどそのタイミングで、夫の兄が突然病気で亡くなったんです。さらにその後すぐに大震災があった。人って、亡くなる時は一瞬。いつまで生きていられるかわからない。だったら、「意味あることをしないと」と強く思いました。
敬二朗さん:実は僕は、20歳ぐらいからずっとカフェをしたいと思っていたんです。本当は大学院に進学した時も、院に行かずカフェの勉強したかった。でも、親に猛反対されたんです。当時は自分も親の反対を押し切ってまで踏み出す勇気がなかった。だから、ここでカフェの夢を実行することにしたんです!
「自分がやりたいこと」と、社会に望まれることとはイコールではない。
真梨子さん:今考えると浅はかだったとは思います(笑)
田舎でオシャレさを打ち出したり、東京で流行っているものを取り入れても、なかなか響かず、伝わりにくいんです。BGMに「美空ひばりはかからんのか」と言われたり(笑)
とはいえ、岡山県ではそれなりにおしゃれと言われて、お客様には来てもらえました。食べログで、岡山県のカフェ部門で一時期5位に入ったこともあります。なんとかやりくりできてはいました。
敬二朗さん:2人でどうにか、忙しいときも頑張り、お客様が少ない時も頑張ってきました。ただ、ある時「これって僕らが生きたい人生なんだっけ?」と疑問が沸いてきたんです。自分たちが「やりたい!」と思って始めたことなのに、全然楽しくなくなってきたんです。
(当時のことを振り返るおふたり)
敬二朗さん:結局5年ぐらいやったんですけど、3年目ぐらいに、「自分たちがこの店をやることの社会的意義ってなんだんだろう」と思いはじめました。
当時はカフェのビジョンとして、「日々に潤いをもたらす場所を作る」ことを掲げていました。「人がどうしたら心から豊かになれるか」が東京の頃からもつ僕たちのテーマでしたから、辛いとき、休みたいときに気分をチェンジできる。そういう場所になればいいなと思っていたんです。
ただ、やっていてその影響度がものすごく小さいなと思い始めました。規模だけの問題ではなく意義としても。
当時、ティモシー・フェリスさんの『「週4時間」だけ働く。』やマイケル・ガーバーさんの『はじめの一歩を踏み出そう』という本を読んだのですが、衝撃を受けました。そこには「事業というのは社会の問題を解決するためにやるのであって、自分がやりたいことをやるのが事業ではない」と書かれていました。僕たちがやりたいからカフェをやるというのは事業じゃないんだと気がついたんです。
真梨子さん:『はじめの一歩踏み出そう』はスモールビジネスの限界について書いた本です。自分が動かなければ売上は立たない。今日お休みにしたら売上ゼロ。自分が倒れたらもうそれでおしまいです。自分の働きが、事業の限界になったとき、それを続けていくごとにだんだんと疲弊していくという、多くのスモールビジネスの現状が描かれています。これは、自分たちのカフェで経験したこと、実家の農家の父が倒れたことからもズバリでした。
起業するときには、最初に描く青写真のサイズ、ビジョン・ミッションの大きさによって、そのビジネスの成長範囲が決まるし、お客様、社員、お取引先などの関わる人々が幸せになるような事業を作っていかなければならないんだと知って、これからどういう形を目指して、何を手掛けていけば良いのか、もう一度考え直さなきゃいけないなと思ったんです。
敬二朗さん:スモールビジネスの限界を超えて、より多くの人たちに豊かさを実感してもらえる、そして、自分たちなりに捉えている社会の問題を、解決していけるような商品、サービスをお届けしていきたいと思うようになりました。
そのとき、カフェをしていたこともあり、「食」のテーマに自然と関心が向きました。心と身体にとって、丁寧に作られたものや安心なものを食べるとことが、どれだけ大切かということを実感していたので、安心・安全な農産物から作られた「お菓子の製造」をしようと思い立ちました。ここでTINTSの最初の構想ができたんです。
ハタケト:やっと社会課題を解決する「やりたいこと」が見つかったのですね。
真梨子さん:そうですね!菓子製造業になると決めて、カフェを一旦全部ストップし、飲食店営業から菓子製造業に切り替える手続きをやって、製造所にするために改装工事もしました。そして「さあやろう!」と思った矢先…1週間後です。わたしの実家から電話が鳴り…
「父が倒れた」と。