2021/01/12
愛をもって向き合うために農家が捨てた、「野菜で稼ぐ」選択肢 【畑の魅力伝道師 小池菜摘】
※畑のそばの、豊かな暮らし発掘メディア「ハタケト」は、2022年9月1日より愛食メディア「aiyueyo」にリニューアルしました。
岐阜県中津川(なかつがわ)市の写真家百姓で、Koike lab.代表の小池菜摘(こいけ なつみ)です。畑の魅力伝道師の中では現在唯一の農家。畑に生かされている人間として、なにをお伝えできるかなぁ、なんてずっと考えながら、今日もいのちを愛でています。
ハタケト、今。
年末年始にかけてぐぐぐと冷え込んで、ちゃんとな冬。
生半可な気持ちでは指先も心も凍って折れる。
朝晩はマイナス5℃まで下がる。バッキバキに凍った道は、ここが標高350mの中山間地であることを思い出させる。
いやあ、さむい。
思い返せば、この地へ引っ越してきたその日は雪かきから始まったものだった。
近頃は雪なんて降らず、道も凍らず、たいへん過ごしやすい冬ばかりだったものだからすっかり忘れていたけれど、寒冷地。
この地の伝統野菜である「菊ごぼう」は、寒冷地が故にその生態を可能にしている。
恵那市・中津川市の赤土で栽培されたものだけがこの名前を名乗ることを許され、それ以外の産地でつくられたものは「ヤマゴボウ」という名前で流通している。ごぼう、と名前はつくが牛蒡とは別物で、山菜のようなものだ。野あざみの一種の根っこを食べている。
どういうわけか、お年寄りであればあるほど「やまごんぼ(東濃弁)」と言ってきかないし、残念ながら伝統野菜としての認識はあまりない。
何せ霜が3回降りたら収穫適期、という変な性質の上、その草丈は地上0cm。
地面に這いつくばって収穫する。連作障害がきつく、7年同じ土では作れない。
全くもって高齢者には厳しく、その栽培技術は継承されないまま消えようとしているのをなんとか踏みとどまらせようとがんばっているところ。
他県産とは比べ物にならない風味と食感。原産地であるこの地で育つ菊ごぼうだけが私は好きだ。だから作る。
しかしながら他の作物に比べてタネも高額で、土壌の消毒は必須だし、植え付けは散々踏まないといけないし、潅水も必要で7月の暑い時期に毎日水やりをする。そして下手したら1本5gとか10gとか。1kg作るのに途方もない調整が必要で、皮が繊細なので機械も使えない。しかも大きくしては価値が減るので、小さく小さく育てる。雑草をやっつける除草剤は登録こそあるが、雑草よりも遥かに弱いので近くには使えない。から全部手で除草する。手間しかかからない。本当に儲からない。
そう、めちゃくちゃに儲からない。
なんのために農業をするのか。
Koike lab.にとってのその答えが少し変わっているみたいなので、今日はそのお話を少し。
暮らすために農業をやらない
Koike lab.はこの地で120年以上続く農家を祖父の代から継いだ、3代目。
夫は生まれながらにして農家の長男で、その父は学校の先生。
義父が農業を継がないので農地を手放そうという話になった時の夫の表情は、今でも忘れられない。
これは、愛だ。
儲けるためならわたしたちは農業の他にその術を持たなくはない。
それでも農業を事業の主軸に置いているのは、農村風景としての景観を守りたいわたしの重たすぎるらしい愛と、言語化できない使命感の下に抱きかかえる夫の愛。
あとはKoike lab.を愛してくれている従業員の子たちの癒しとしてと、地域のこどもたちの食文化。
「もうかる農業」が叫ばれて久しい昨今、もちろんKoike lab.も一度は夢に見た。ビジネスとしての農業がいろんな形で実現可能なことは知っている。
けれど、やっぱりその利益にたいせつな生活、ましてや我が子の人生の選択肢を預けるには非常に不安定であることに変わりはない。
自分の仕事を減らすためにひとを雇うことはできるし、人件費を削減するために機械投資をすることもできる。100万や1,000万の投資は、農家にとっては簡単で当たり前のことだ。金利0で本気を出せば結構借りられてしまうし、つくって売り続ければきっと回収もできるのだろう。大きな力で、コントロールされているから。
薄利でもたくさんつくって多売すればもしかしたらいいのかもしれない。売り先も今後一層の高齢化により、一旦競争率が下がっていくだろう。
しかしながら野菜をたくさんつくる、というのは土に・自然に、多大な負担をかける。多品目の無農薬農家で2町歩(約2ha)やっているひとを知っているが、奇跡としか言いようがない。わたしたちはそんな、奇跡みたいな農業を真似できないし、世でいう農業の「多売」は10haでも100haでも同じ作物を作ってさばくことを言う。平らな1つの畑が1反(約0.1ha)ほどしか取れないこの中山間地で、そんなこと、不可能だ。
愚痴のようになってしまうこんなことを日々考えていくうちに、わたしたちがたどり着いた思想は
・食は人生の基礎。投資は必要だが、それを野菜の価格に転嫁するのは食糧供給の観点を忘れないためにもできるだけしない。
・野菜や土や周囲の自然に多大な負担をかけてまでつくることはしたくない。自然と共存し、共栄するのための策を最後まで考え続けたい。
・代々やってきた古き良き農業でつくる野菜は本当にうまい。数多ある野菜の中からうちの野菜を選んでくれるお客様には本当にうまい野菜を食べ続けてもらいたい。
というようなこと。
それらを最低限実現しようと思うと、もう答えは見えてくる。
「農業が続けられるよう、持続可能な方法でつくり、持続可能な価格で売る」
持続可能な価格については農業関係者がいろいろなことをいうけれど、確実な答えが存在しない。
じゃあここからおそらく50年以上農業をするであろうKoike lab.がやってみよう、少なくとも芋をつくり続けるための価格は、如何程なのか。
毎年価格の微調整を繰り返して、事業の継続に不必要な利益を残さない形で決算していって倒産しなければ、それが持続可能な価格になるはずだから。
説得力のある愛
価格、というのは需要と供給で決まる。
欲しい人が買いたい値段と、つくる人が売りたい値段の折り合いを付けていくことで価格が決まるのだ。
国産野菜の需要と供給についてはその経済的合理性がすでにない。
山のようなフードロスを出しながら、買いたい側ばかりが文句を言い、強くなった市場に、整合性なんてあるわけがないんだよ。
ひとが生きるのに必要な野菜だからこそ、それはインフラであり、地球が滅びるまでなくならない市場。そこにハイエナのようにたかる儲けたいひとたちが本来そこにあるはずの整合性を歪めてきたのだったら、わたしたちは「野菜で儲けたい」などという煩悩を完全に捨てて、愛だけでやりきってやろうと思っている。
わたしたちの生活費は農業とは完全に別。アルバイトや写真で生計を立てている。
そのおかげで異常気象で野菜が全然できなくても「自然の計らい」と受け止めることができるし、収入が少ないことを野菜や政治のせいにしなくても済む。精神衛生が保たれる。
お客様にとっては、それがスーパーの値段より高かったとしてもちゃんとおいしくて安心で、来年も10年後も100年後もその子たちをつくるために必要な値段だと理解できれば納得できて、払ったそのお金が確実に未来の野菜をつくることに使われているとしたらポジティブなのではないだろうか。買い物は投資だ、ってまさにその通りになる。
従業員にとっては利益が多くでればその分ボーナスが増えて(現在は最終利益の10%がパートさんのボーナスになる仕組み。割合はどんどん増やしていきたい)、時給が上がり、労働環境がよくなる。わたしたちと同じく生活を農業に依存しないツワモノたちばかり採用しているのは、その過程を楽しめるひとじゃないと辛いと思うから。
兼業農家になって7年、ほぼ農家になって2年。
まだまだきっと、改善の余地はあるけれど。
わたしたちは説得力のある愛の分だけ、農業にかかわり続ける。
自分にも、お客様にも、仲間にも、そして未来にも。
四方に偽ることなく本物の愛を循環させながら営む農業が、まっすぐで、輝いていて、希望のある形で続いていきますように。
願わくば、そうしてつくる子たちが、愛あるひとたちに食べてもらえて、お口に合うことが叶いますように。
ライター/小池菜摘